橋矢田鎧初期
橋矢田経然はもともと鍛冶屋で、
明治30年代初頭、農耕具や鍋などを作って生計を立てていた。
橋矢田経然の造る農耕具や鍋は
徳舜瞥山の麓から続く長流川の底からさらった
砂鉄を独自の精製方法で精錬したものが使われていたが、
非常に軽いという評判だった。
当時、現在の優徳に人が住み着くようになったころは
山深い当地は決して住みやすい土地ではなかった。
特に、海岸沿いや平地には人が増えつつあり、
ヒグマやニホンオオカミが山へと
追いやられた時代でもあり
自警団が各地で組織されたが
その被害は止まることが無かった。
そこで橋矢田経然は山歩きに適した
軽い鎧は造れないかと考えた。
こうして造られた鎧は
信じられないような軽さだと評判を呼び
近隣自治体の自警団で瞬く間に広まった。
後に、その橋矢田経然が精製していた金属こそは
伝説の金属ヒヒイロカネだったことが
わかった。
この橋矢田経然が造った鎧は
「新世代軽鎧」と呼ばれた。
残された記録から解るだけでもざっと
150体以上は造られたと思われる。
初期橋矢田鎧
近隣からの受注品の橋矢田鎧
試作鎧「羅」
橋矢田経然の弟子による鎧
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装甲侍豆知識
「霊座」
試作鎧「羅」からできた作業。
完成直後の鎧にはまだ霊力が
記憶されていないため、
着用予定者が
鎧を着用してしばらくじっとしている。
儀式的な側面があるが、
これをしないと
鎧は着用者と共鳴しないため
鎧本来の重量がのしかかり
とても動けたものではないのである。
ちなみに霊座前の試作鎧「羅」は
重量20キロあまり、
最大の羅刹闍では50キロもある。
霊的に共鳴した鎧は共鳴した装着者に対してのみ
重量が飛躍的に減少する。
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