橋矢田経然の弟子たちの鎧
明治30年代後半から始まった橋矢田鎧の製造は
規模も拡大され、大正五年五月に徳舜瞥鉱山が発見されてからは
橋矢田経然の指導の下、
弟子たちが新世代軽鎧の生産を続けていた。
中にはオリジナルの鎧を造る者もいた。
八村平一、須藤茂信、大島勝彦、宍戸莞爾など。
特に八村平一は橋矢田経然自身が唯一認めた
「新世代軽鎧の完全継承者」で、彼の製作した鎧は
人気があった。
逆に、装甲侍の制作期間中は溶鉱炉に余った玄朱鉱は
自由に使って良かったため
勝手に粗悪品を作って売りさばく者もいたという。
弟子の作った鎧
八村鎧・壱型〜参型
八村蒼龍
八村韋駄天
大島陽甲
須藤霧凪
宍戸強瓦射(業伽者/ごうがしゃ)
初期橋矢田鎧
近隣からの受注品の橋矢田鎧
試作鎧「羅」
橋矢田経然の弟子による鎧
|
粗悪鎧平成元年に起きた 「鎧武者亡霊事件」の時に
出現した複数の怨霊が着用していた鎧。
奥に見えるものが八村平一作と思われる。
軽く100年以上、土中にあったにも
かかわらず全く錆びていない。
|